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−>>2020/03/28/(Sat) ありがとう、ジーン。


<インドネシア・コモド島のジャングルにて>


 今日3月28日。
 私が12年間お世話になってきたテレビ番組『にじいろジーン』が最終回を迎えた。
 関西テレビ制作の情報バラエティー番組で、毎週土曜日の朝8時半〜10時に放送されていた番組だ。
 大阪・関西テレビ制作であるが、全国ネットであり日本中で観られる番組だったので、毎週のように視聴して頂いていた方、観たことあるな〜という方、大勢いらっしゃると思う。

 そんな番組の中で、私がカメラマンとして担当していたのが、番組キャラクターの“ジーンちゃん”が世界を旅するコーナーだった。
 ご存知のように、私の海外ロケの多さは、まさにこの番組を担当していたのが理由だ。
 12年間で延べ100ヶ国以上を回った。100ヶ国前後までは数えたが、それ以降は面倒になって正確な国数は把握していない。


 2008年4月5日に番組がスタート。
 私が初めてこの番組の海外ロケについたのが、2008年4月13日。翌5月のオンエア分だ。
 なので立ち上げ時のメンバーではないのだが、初期スタッフとして参戦し、そこから12年、レギュラーで海外ロケを担当し続けた。
 最初の8年は会社員カメラマンとして、最後の4年間はフリーランスとして。
 自分の人生に大きく影響を与えた番組だ。


<トルコ・ボドルムの円形劇場>


 番組の海外コーナー担当のディレクターは基本4名で、ローテーションでロケを回していた。各ディレクターがそれぞれにカメラマンを選ぶので、全てのロケに呼ばれるわけではない。
 わたしの頻度は、3〜4ヶ月に1回というところだ。

 1回のロケで2ヶ国を回る。番組コーナー2回分(2週分)をロケした。
 基本的には10日〜14日ぐらいのロケスケジュール。日本から遠い国は移動が24時間以上かかる場合もあるので14日前後。アジアなど近場の国は移動したその日からロケができるので10日前後…という具合だ。

 当然12年も続ければ、海外に行くことは日常になったし、ATAカルネなどの手続きも税関職員よりも詳しくなった(笑)
 英語は上達しなかったけど…。


<クック諸島・ラロトンガ>


 そして、何よりもカメラマンとして大きく育ててくれたのが、この番組だったと感じている。
 風景撮影・インタビュー・料理撮り・物撮り……旅番組に必要な要素がふんだんにあり、技術的な側面は全て自分1人でやらないといけない。音声さんや照明さん、アシスタントなどは居らず、技術はカメラマン私1人だけなので、映像のクオリティーは全て自分次第ということになった。


<ドイツ・バイエルン州のノイシュヴァンシュタイン城>


 カメラは基本的にはデジで、最初の頃はまだ SD画質だったので SONY DSR-PD150でDVテープでの取材だった。
 カメラに搭載されている Picture Profile を調整し画質を作り込んだり、フィルターを使って現場で画作りを徹底した。
 
 その後すぐにSDからHD画質に番組は移行。
 HD初ロケは私が担当だった。
 当初は SONY HVR-Z1J で撮影。HDVテープだ。
 2009年には SONY HVR-Z5J へ。こちらも HDV。
 暫くは miniDVテープ規格の収録が続く。

 2010年には SONY HXR-NX5J が発売されるが、テレビ業界の SDカード導入は非常に遅く、関西では 2015年ぐらいになってから漸く NX5Jの中古や NX3J が現場に投入されるようになる。
 にじいろジーンも状況は同じで、しばらくは Z5J の HDVテープ時代が続く。

 ただし、私がロケに就いた場合のみ少しイレギュラーで、一番最初の 2008年4月のロケから SONY HVR-MRC1K を併用。MRC1Kは、CFカードでHDV・DV収録ができる外付けユニットだ。
 自前の MRC1K を所有していた私は、PD150 にも Z1J にも MRC1K を取り付け CFカードとDVテープを併せてダブルレックし続けた。


<PD150にMRC1Kを取り付けている。タヒチ・パペーテ>

 
 その一番の目的は非常に個人的理由で、撮影した映像を自分がプレビューして映像を研究したいからたっだ。
 テレビロケは極めて分業的だ。カメラマンは撮影するのが仕事で、編集はディレクターの仕事だ。ロケが終われば収録テープは全部ディレクターが責任を持って預かり、カメラマンがその収録素材を観られる機会は少ない。
 なので、自分の手元に素材を残すために、CFカードで回し続けた。

 ただ、それが現場を救ったこともあった。
 例えば、砂漠の真ん中だというのにディレクターがロケ車に予備テープを置き忘れてきて、テープチェンジができず、私のCFカードへの収録で事なきを得たこともあった。
 そんな事が何度かあって、ディレクターに「私以外の(CFカード使ってない)カメラマンと行っている時に、予備テープ忘れてきたらどうしてるんですか?」と聞いたら「いや、宏哉くん以外と行っている時は気を付けてるから」と冗談のような答が返ってきて、甘やかしすぎはよくないなと思ったのだ(笑)

 また、そうやって録り溜めた撮影データを、後年蔵出しして欲しいと番組ディレクターに頼まれたこともある。放送局には白パケは残っているのだが、素材テープなどはしっかりと管理されて居らず、大元の撮影素材が探し当てられない状況だったからだ。


<インドネシア・プトラジャヤのプトラモスク>


 2013年からは JVC GY-HM650 を導入し SDカードで 35M bps の MPEG 2 収録へ。
 当時はまだ、TVディレクターのノンリニア編集ソフトは Final Cut Pro“7”が主流だったので、FCP7で動画ファイルをProResなどに変換せずにネイティブ編集できるワークフローを模索していた。
 正直、誰に頼まれた訳でもないし、きっと番組に携わっていたスタッフはカメラマンであろうとディレクターであろうと、誰もそんなシステム変更は考えていなかったと思う。
 ただただ私がより高画質で海外の景色を残したい。そして、その高画質化と編集のワークフローの円滑さは、共存できなければならない――-という思いで、HM650の導入をディレクターに進言したのだ。

 その後、局でも正式に JVC GY-HM600シリーズが採用され、HM650と後継の660が導入された。


<アメリカ・サンタバーバラ郊外のガビオタ温泉付近>


 スライダーを最初に現場に持ち込んだのも私だ。 今でこそ Libec の ALX スライダーが主力だが、最初の頃は韓国製のスライダーを持ち込み、動感のある映像を模索した。2013年からだ。
 翌年 2014年夏には Libec ALX (当時は ALLEX)を投入。
 
 番組が始まって 7年ほどが経過していた時分だが、映像がマンネリ化しないように自分なりの工夫と模索を行っていた。


<カナダ・オタワのカナダ航空宇宙博物館>

 
 勿論、スライダーは私物だ。
 当時はまだ会社員だったので、会社の機材とは別に自分のサイド機材も現場に持ち込んでいた。
 正直、会社としてはいい顔はしていなかったと思うし、会社員としては間違っていたのだと思う。
 先輩に「お前が行くときはそれができるかも知れんけど、他の奴らが行くときはそれができひんやんけ。会社としてそれはアカンやろ」とも言われたが、それは俺が悪いのか?とも思った。まぁ機材差なので私が悪いのか…。
 結局私は、より映像表現を豊かにしたかったし、番組を技術の面からさらに良くしたいという思いで、引き続き自己投資は惜しまなかった。

 正直言うと、この辺の面倒くささがフリーランスへの独立意欲を加速させていく切っ掛けになった。


<スペイン・バレンシア地方の田園地帯にてドローン空撮>

 
 番組でドローンが初めて登場するのは、2016年夏からだ。
 もちろんこれも私が持ち込んだ。
 番組で最初にドローンを飛ばしたのは私であり、その後、海外コーナーで自前でドローンを飛ばせるカメラマンは結局は唯一私だけだった。

 最初にも書いたが、海外コーナー担当のディレクターは4名で、それぞれが付き合いのあるカメラマンに個別に声を掛けるので、レギュラーで携わるカメラマンは5〜7人というところか?
 有り難い事に、4人いるディレクターのうち3人が私にいつも声を掛けてくださっており、私のスケジュールが合えば喜んでロケにお供した(笑)
 特にドローン投入後は「次のロケネタはドローン空撮が活きるから、是非来て欲しい。」とオファーが来る事も増え、自分の強みにもなった。

 なお、2016年夏は既に私がフリーランスになっている。2013年春からドローン空撮を始めていた私だが、流石に会社員時代でのドローン投入はリスクが大きすぎて、実行しなかった。多少は自分にもまともな判断力が残っていたようだ。


<マレーシア・イポーのThe Banjaran Hotsprings Retreatにて>


 2017年からは GH5 も導入。サブカメラ的な用途だったが、レンズ交換できるメリットを活かし、超広角レンズでホテルの部屋を広く見せるように撮ったり、被写界深度の浅い画作りで料理撮りをした。GH5sを導入してからは夜景などの撮影に活用した。

 こうして見ると分かるように、今のタイムコード・ラボ(私の屋号)の礎となっている機材群は、すべて「にじいろジーン」を最高のロケにするための物ばかりなのだ。
 そして、私の撮影手法や技術は、この海外ロケで育んできたものであり、私を育ててくれた番組だったと、間違いなく言える。

 番組が終わってしまったのは、この上なく残念で悲しい…。
 だが、確かなのは「大好きな番組」で「愛すべき番組」だったということだ。

 この12年間、私を育ててくれた番組とスタッフに心から感謝申し上げたい。
 そして、また何かのカタチでこの番組の遺伝子と再会できることを願ってやまない。


<インドネシア・フローレス島ラブハンバジョのコモド空港にて>


■タヒチ 2008年
私にとって、はじめての「にじいろジーン」ロケはタヒチだった。
ゴーギャンの末裔の家を取材し、はじめて「パンの実」を食べ、カヌーに乗って海でひっくり返った。


■ベトナム/ホーチミン 2008年
タヒチから、今度はホーチミンに飛んだ。
ベトナムは社会主義国で、ロケには政府から派遣されるインスペクターが監視で同行した。…が、その時のインスペクターさんは凄い良い人で、三脚持ってくれたりした。インスペクター同行と言っても、この頃には既に形骸化してきており、特に何かロケを規制されることも無かった。撮影終了は帰国予定の1日〜半日早く切り上げる必要があった。収録テープを全巻、当局に提出してチェックを受けるからだ。だが実際は、預けて封印テープをされて返却されるだけになっていた。


<管理人;宏哉・27〜28歳?>


■ドバイ 2008年
まだ、ブルジュ・ハリファ(当時はブルジュ・ドバイ)が建設中。
大金持ちの国感が、ハンパなかった(笑
外は死ぬほど暑く、建物の中は死ぬほど寒かった…


■フランス/パリ/モン・サン・ミシェル 2008年
新婚旅行で1回だけ行ったことのあったパリ。その旅行では結婚当時発売されたばかりの Z1J(私物)を持って行き、新妻に三脚を持たせました……。
この時も Z1Jだけど、三脚持ってくれてるのはディレクターでした(笑
あとは、モン・サン・ミシェルへ! パリからは車で5時間ぐらい掛かりました。
移動中の車では何故かアニメのマクロスFの曲を聴いていました。


<中は土産物街>


2008年はこの他、ギリシア・アテネや南アフリカ、フランス・リヨン、チュニジアなどにも行きました。
また、他の番組ではサウジアラビアへも。

■インド・デリー 2009年
やばい国インド。色々とヤバかったです。
取材協力をお願いしていた家族が、協力してくれません(笑
時間も約束もスッポかされます。
最後は、日本製のデジカメを現地で購入してプレゼントして、なんとか協力して貰いました。(取材協力費も別に払っていたはずなのに…)


■ドイツ・ドレスデン 2009年
とにかく、美しいと感じた街でした。
空と建物のコントラストが最高。
旧東ドイツの素朴さも好きです。『もう一度行きたい街リスト』上位!!


■モロッコ・マラケシュ 2009年
砂と土!という印象が強く残っているマラケシュ。
エスニック感は最高です。
ジャマエル・フナ広場で、「宮迫です!」というギャグをひたすら繰り返しているモロッコ人と出会った…(誰だ教えたヤツは!)
スークは煌びやか。
ちょっと遠出して、アイット=ベン=ハドゥまで行った道中も思い出深い…。


■タイ・バンコク 2009年
穏やかな時間が流れたタイロケ。
この時で出会った現地コーディネーターさんのチームとはその後のロケでもずっとお世話になっています。


■インド・ムンバイ 2009年
インド再び。
何故だろう……全然写真が残ってない…。
とりあえず、散々裏切られたロケでした。
取材予定の建築物は完成しておらず、急遽現場で変更するも3度裏切られ…。
カメラを構えていると警官がやって来て、賄賂を要求。
インド政府の撮影許可書を持っているのに、船で1時間かけて行った先の現地の責任者は「俺は聞いていない」と取材禁止を突きつけ、3時間足止め。10分だけ撮影の許可が出て、大急ぎで撮影。いや、政府から許可貰ってんだけどさ。
ムンバイの後、シンガポールに移動したのだが、インドの空港で撮影機材だけ積み忘れられて、シンガポール取材に影響したり。
インド半島って地球上に必要なのかな……って思いました。


■シンガポール 2009年
その後、アメリカに次いで何度も行った国、シンガポール。
このコンパクトさが好き。
マーライオンですよ! テレビで見たことあるヤツ!
チャイナタウンやリトル・インディア、アラブストリートなどがギュッと詰まっており、プラナカン文化に触れたり、また最新のアトラクションやファッションなども楽しめる、国自体がテーマパーク。
この当時はまだ、屋上にプールで有名なマリーナベイサンズはありませんでした。


■セネガル・ダカール 2010年
アフリカ西海岸のセネガル。
パリダカで有名な首都ダカールへ。
最大の思い出はディレクターが黒人集団のカツアゲに遭ったこと。
無事に生きて帰ってきてくれて良かった。


■セーシェル 2010年
東アフリカ沖のインド洋に浮かぶ島国セーシェル。
我々ロケ隊が行くまでは水不足で危機的状況だったらしいのだが、我々が到着後に雨が降り、救世主となった。ディレクターが雨男なのだ。
が、そのお陰で本来美しい筈の海は濁ってしまい、撮影では悲しい思いを……。
なお、このディレクターは後年サハラ砂漠ロケで、サハラ砂漠に雨を降らせた。


意外なことに、2010年はこの2ヶ国しか行ってないらしい。
創想雑誌を振り返っても、写真でもこの二ヶ国しか記録にない。
2010年は、マンションを購入してリノベーションしたり、HXR-NX5Jを購入したりと、プライベートが充実した年だった。

■韓国・釜山 2011年
日本からの距離の近さにビックリ。
大阪から実家の滋賀県に帰るよりも近いかも…と思ってしまう。
ハングルや左ハンドル右側通行以外は、あまりにも日本に似た風景に不思議な感覚だった。
とりあえず飯が美味い。


■中国・厦門(アモイ) 2011年
私の海外ロケの中でも強烈に記憶に残る厦門ロケ。
武夷山での雄大な自然に圧倒され、中国役人の面子主義に圧倒され、そして厦門に帰ってきてから体調不良を起こし、病院送りになる…。
この12年間の海外ロケで唯一病院送りとなった、記憶に残るロケだ。


■オーストラリア・メルボルン 2011年
この頃、ATOMOSという会社が映像業界で話題を集めていた。そう、SHOGUN や NINJA といったモニターレコーダを作った ATOMOSだ。その本社がメルボルンにある。
ただ、それだけでちょっとソワソワしていた(笑
気持ちの良い季節で、海も森も美しかった。


■シンガポール 2011年
シンガポール再び。マリーナ・ベイ・サンズが出来た直後だったので、恐らくプロモーションが絡んでいたのだと思う。
我々スタッフも全員マリーナ・ベイ・サンズに宿泊させて頂いた。
ロケが終わったら、一人でふらふらサンズのショッピングモールに買い物に出掛けたりしていた。
そのショッピングモールの運河で収録中、日本から修学旅行に来ていた学生達が番組マスコットのジーンちゃんを発見し、大騒ぎになる。
収録には、サンズの担当者が同行していたのだが、「すごい! この番組はそんなに日本では有名で人気なのか!?」と大満足して頂く。その後のロケが非常に行いやすくなった。グッジョブ修学旅行生。


<マリーナ・ベイ・サンズの屋上プールから>


2011年は他にもマレーシア・クアラルンプールや中国・上海にも行く。
また、他の番組では、パリ、ストックホルム、パタヤ(タイ)などにも行っている。


とりあえず、今日はここまで!

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